負の思考:カサンドラへの道

Twitter で夫の不満を書き出すようにして初めて気づいたことがある。

 

夫は例え自分に直接の原因があっても、家族に関する失敗は「俺らが」やらなかった・できなかったと言う。

例えば出掛け前でバタバタしていて、みんなを待つだけの夫に「水筒を持って行かないと」声を掛け、夫は水筒に水を入れるもののその水筒を持って出なかったとする。するとそれは「俺らが持ってこなかった水筒」となる。

同じような場面で私が忘れた場合、それは「お前が忘れた水筒」となるにも関わらず。

 

そして私はといえば当然、自分の失敗は自分のせいだし、むしろ子どもが何かしでかした場合も、夫が何かを忘れた場合も全てを自分の責任であるかのように感じてしまう。「声掛けをしなかったから」事が起きた、「私が直前にリマインドしなかったから」忘れたのだと。

 

夫のそれは、とても自然で、何の疑いもなく、心の底から出てくる言葉。自分でも気付いていないと思う。だから、その言葉と私の「全ては私のせいだ」が私にのしかかって、とにかく自分は全てがダメな人間だからこうであると、深い沼に落ち込んでいってしまう。

 

もう一つある。

人に何かを伝える場合、特に私が義両親に何か報告する場面では、全て私が一人でお膳立てした事でも「私たち」がやりました、と報告をする私に対し、同じように「俺たちがやった」と手柄を山分けする夫。もちろん、自分が主体となってした事については「俺がやった」と両親に報告する。私がした事など何一つなかったかのように。

だから、義両親の私に対する評価はおろか、私の中の自分に対する評価でさえも上がる事がない。

自分だけが知っているはずの事実も、積み重ねて発っせられる言葉は事実を塗り替えていく力になるのだ。

 

こうして10数年、自信100%の夫と、自信のない私が一緒に暮らしていく中で、私の自身はおろか自我も自尊心も少しずつ削られていってしまった。それでも10数年もの間、鬱にならず過ごせたのは、私の人間関係が家庭内だけに留まらなかったからだと思う。私を認めてくれる友人がたくさんいて、職場も、地域も学校の保護者との繋がりもあった。だから、新しい土地に引っ越して、さらにロックダウンという閉鎖的な環境に置かれた中で、娘が引きこもり化し、思春期もあって言葉も乱れ、夫と激しくケンカするという状況に『全ては私がきちんとしてこなかったからだ』と頭ではもうどうしようもない負の感情に取り憑かれてしまった。

 

全てが私のせいだなんて、そんな訳はない、と頭の片隅ではきちんと分かっていた。しかも、本当に気持ちが落ち込んだのは、子ども達が学校に戻り、夫が出勤し始め、生活が正常に戻った後。それまでの緊張が解けて、手に負えないほどの負の感情が一気に噴き出してしまったのだと思う。