Queen Bees & Wannabes

最近、気をつけようと思っている事。

 

女の子の育て方、指南書。Queen Bees & Wannabes はとても興味深く、話し方の実例が多くてとても参考になる本でした。

 

ためになる内容がたくさんある中で、最も自分に一番響いたのが

 

「人との約束をつらぬき通す」

 

挙げられた例では、幼馴染の A と遊ぶ約束をしている日の朝に、最近仲良くなった、目立つグループに属する B からの誘い。娘が後から舞い込んだ B からの話を受けた場合、親としてあなたはどうするか。

 

娘の対応としてできるのは

(1) A との約束があるから、と B を断る

(2) A に嘘をついて B と出掛ける

(3) B に話して A も一緒に出掛ける

 

これを読んで、娘がどうしているかよりもまず、そもそも自分はどうするだろうか、という思いが一番残りました。

 

私は(3)をしがち。(1)は、なかなかできない。特に、B ともっと仲良くしたいと思っている場合は、何か大きなチャンスを逃してしまっているような気持ちになってしまう。

 

何があっても最初の約束を守る。

それは人生のどの場面でも大事なことだと、今さらながらに感じられるようになりました。

付き合い始めから19年、結婚して12年の夫と初めて3時間以上に渡り意見交換をした

本当に、今まで何をしていたんだろう、というくらい、初めて夫と意見を交わした。

子ども達について、私の考えについて。

 

特に息子の育て方について。

 

午前中に2時間、それでも理解し合えず夕方に1時間。

こんなに話し合ったのは、付き合い始めてから初めての出来事。

 

でもそれができて、私も、恐怖や絶望感に埋め尽くされずに、思っていることを自分の口でしっかり伝えられたこと。夫も、激昂せずに威圧的にならずに意見交換に努めてくれたこと。

 

本当に、私たち夫婦の第一歩だった.....と私は確信している。

彼が実際にどう思い、どう変わっていくのかいかないのか。それは本当に分からないけれど、私は強くなった。

 

きっと大丈夫、これから今までの分もっと話し合って解決していける、例えそれができなくても、私の人生に、子ども達の人生のマイナスにはならない。そう確信できる。

 

頑張るぞ。

 

(私が、自分を責め続けた10年からこの数ヶ月でようやくここまで来れたのは、ずっと変わらずに友達でいてくれ、話を聞いてくれ、「大丈夫だよ、間違ってないよ」と支えてくれた友人達と、私の心に寄り添ってくれたカウンセラーがいたから。本当に感謝しかない。)

「がんが自然に治る生き方」By Kelly A. Turner PhD

巡り巡ってこの本に辿り着いた。

私は闘病者ではなく、周りに闘病している人がいる訳でもない。

それでも、この本は、周辺の空気がとても澄み渡るような気持ちにさせてくれる。

特にオーディオブックで、著者本人の声で読み上げる言葉には、感情やライブ感がとても強く伝わり、西洋医学的には「奇跡的」にがんが治癒した人の話を聞くと、幸せがこみ上げてくる。

 

同時に、乳がんで亡くなってしまった小林麻央さんについても、ニュースなどで知っている以上に少し掘り下げて知ってみたくなった。

 

この本に辿り着く前は、Yuval Noah Harari 氏の「サピエンス前史」に心を奪われていた。そして、さらに難解だった「ホモデウス」も読み(聞き)終えた時に、彼の言う『魂というものは無い』という断言にだけ少し違和感を持った。

 

それから、たまたま「生まれ変わり」研究の第一人者である大門正幸教授の事を知り(Twitter で見て気になっていた、息子さんが「交差点で事故死した」と話すお母さんの投稿を取り上げた番組に出演)、その大門教授が話す動画で紹介していたのがこの Kelly Turner 氏の著書だった、という玉突き的な流れでこの本を手に取る。

 

「がんが自然に治る生き方」を批判している医師のレビューも斜め読みしたが、例えば著者の立場に関する見解(医者ではない)、本人の研究よりも人の言葉の寄せ集めだというような批判だった覚えがあるが、この方はきちんと書籍を読んだのだろうか?と疑問に思えた。

何も非科学的で超現象的な事は書いておらず、むしろこんな生き方をしたらそりゃ癌もできにくく、また体内にできた癌も消えるだろう、と思えるような内容だった。

 

ただし、本を読みながら私は「末期ガンが見つかったら、私は確実に死ぬな」とも思った。

そもそも、癌細胞が奇跡的に消滅した人に共通する9つの1つである「生きるという強い信念、生きたい理由」が私に欠損している。

 

子どもが2人いてこうなのだから、本当に生き方を考え直さなければダメだと思う。

 

自立しているかのような娘が、大人になって壁にぶつかった時にいてあげないと。

まだまだ甘えん坊の息子が「くそばばあ」と言うようになり、そしてそれを乗り越えて母や家族の大切さを知り、精神的に自立できるまで見守ってあげないと。

 

そうか、私にも生きる目的ができた。

 

 

不平等な関係

私の夫は、背が高く、記憶力が抜群で、頭の回転も早く、情に深く、自分にとても正直だ。

一方の私は、記憶する力が弱く、いつも悩んでばかりで決断が遅く、悩んでばかりいるため自分の心が分からず、しかも薄情。こんな夫は、どうして私を妻に選んだのだろう。

全く、苦しいばかりで良い事が何もない。

 

夫は情に深いと言っても、家族を慈しむでも、優しい言葉をかけるでもなく、ただ「家族だから」という理由で家族を決して見捨てる事はしない。もちろん同様に「家族だから」こうすべき、と家族に求める気持ちも人一倍強い。

 

自分にとても正直なので、美味しい・美味しくないは自分の感覚が基準。基本的に、自分か自分の母親が料理したもの以外は美味しいと思わない。なので平気で料理に「まあ普通、すごく美味しい訳ではない」と言ってのける。

私は、知識もなく、料理も満足にできず、部屋の片付けもできず、何かに情熱がある訳でもなく一日をバタバタと過ごし、ただ夫の情けで暮らしている。

 

お情けで生かされている暮らしは、楽しくもなく、自分を責める理由だけは豊富に見つかり、とても苦しい。でも、私のように知識もなく、家事もできず、何に対しても情熱がない人間は、言ってみれば時間を、人生を搾取され、惨めに生きていく外に仕方ない。家から出れば、もっとさらに惨めな暮らしが待っているだけだ。食事と、横になって眠れる家がある事に感謝しなくてはバチが当たる。

負の思考:カサンドラへの道

Twitter で夫の不満を書き出すようにして初めて気づいたことがある。

 

夫は例え自分に直接の原因があっても、家族に関する失敗は「俺らが」やらなかった・できなかったと言う。

例えば出掛け前でバタバタしていて、みんなを待つだけの夫に「水筒を持って行かないと」声を掛け、夫は水筒に水を入れるもののその水筒を持って出なかったとする。するとそれは「俺らが持ってこなかった水筒」となる。

同じような場面で私が忘れた場合、それは「お前が忘れた水筒」となるにも関わらず。

 

そして私はといえば当然、自分の失敗は自分のせいだし、むしろ子どもが何かしでかした場合も、夫が何かを忘れた場合も全てを自分の責任であるかのように感じてしまう。「声掛けをしなかったから」事が起きた、「私が直前にリマインドしなかったから」忘れたのだと。

 

夫のそれは、とても自然で、何の疑いもなく、心の底から出てくる言葉。自分でも気付いていないと思う。だから、その言葉と私の「全ては私のせいだ」が私にのしかかって、とにかく自分は全てがダメな人間だからこうであると、深い沼に落ち込んでいってしまう。

 

もう一つある。

人に何かを伝える場合、特に私が義両親に何か報告する場面では、全て私が一人でお膳立てした事でも「私たち」がやりました、と報告をする私に対し、同じように「俺たちがやった」と手柄を山分けする夫。もちろん、自分が主体となってした事については「俺がやった」と両親に報告する。私がした事など何一つなかったかのように。

だから、義両親の私に対する評価はおろか、私の中の自分に対する評価でさえも上がる事がない。

自分だけが知っているはずの事実も、積み重ねて発っせられる言葉は事実を塗り替えていく力になるのだ。

 

こうして10数年、自信100%の夫と、自信のない私が一緒に暮らしていく中で、私の自身はおろか自我も自尊心も少しずつ削られていってしまった。それでも10数年もの間、鬱にならず過ごせたのは、私の人間関係が家庭内だけに留まらなかったからだと思う。私を認めてくれる友人がたくさんいて、職場も、地域も学校の保護者との繋がりもあった。だから、新しい土地に引っ越して、さらにロックダウンという閉鎖的な環境に置かれた中で、娘が引きこもり化し、思春期もあって言葉も乱れ、夫と激しくケンカするという状況に『全ては私がきちんとしてこなかったからだ』と頭ではもうどうしようもない負の感情に取り憑かれてしまった。

 

全てが私のせいだなんて、そんな訳はない、と頭の片隅ではきちんと分かっていた。しかも、本当に気持ちが落ち込んだのは、子ども達が学校に戻り、夫が出勤し始め、生活が正常に戻った後。それまでの緊張が解けて、手に負えないほどの負の感情が一気に噴き出してしまったのだと思う。

 

はじまり

もともとは、ロックダウン中に思春期に突入した娘が心配になった。

思ったことをパッと口にしてしまう夫と娘の関係も心配だった。が、それは私が常に間に入れば何とかなった。

それよりも、娘の言動が発達障害から来ているのではないかという思いがより強くなったのがカウンセリングを受けようと思ったきっかけだった。

 

思っていること全てを話せる訳ではなく何も解決はしなかったが、話を聞いてくれる人がいる、それだけで気持ちがとても楽になった。カウンセラーと話しているうちに、娘は発達障害の傾向はあるかも知れないが、今はそれよりも思春期特有の言動の方が強いのでは、と思えるように。

 

それから、自分のことも相談してみることにした。

どうしてこんなに劣等感が強いのか。自分を否定する気持ちが拭えないのか。

惨めで辛くて、役目が終わったらさっさと家から出て行きたくて仕方ないのか。

 

それを掘り下げていくうちに、カウンセラーが言った「旦那さんは、アスペルガー症候群の可能性がありますね」で、瞬時に驚くほどにスッキリし納得し溜飲が下がることに。

いや、そうではないかと思った事はあったけれど、夫は絶対に認めないだろうし、そもそもカウンセリングを受けに行くなど想像もつかないので全くの他人事だと思っていた。夫のアスペルガーもそうだけれど、何より自分の状態がカサンドラ症候群で説明が付くではないか、とそこまで納得がいった瞬間だった。

この時の瞬間を私は「アハ!⭐️の瞬間」と名付ける。

この後はもう、自分の劣等感から重たい気持ちの何もかもが全て消え去り、呪縛が解けてとにかくハイの状態だった。後からぶり返しそうで怖いと思いながらも、とにかく気持ちが常に軽く浮かんでいるように感じられた。

 

しかし、心配していた通り気持ちのぶり返しはやってきて、動けない日々も過ごすようになる。

全てはまだここ数ヶ月の話だ。

 

今はまただいぶん落ち着いて来た。

私の心はこんな波を越えた。

・私の鬱蒼とした気持ちの原因が分かった!(アハ!)

→ ・原因が分かったのだから、長期戦になってもこれまでよりは良い対応ができる

→ ・夫の態度はアスペルガーからきている。〇〇のように対応するのが良い

→ ・これまで気付かなかった、様々なアスペルガー的側面が見えるようになりイライラが募る

→ ・少しずつ言葉で伝えるようにする、が目に見える変化はない

→ ・変化しない事にイライラ、伝わった事に対しては「今まで自分が伝えなかったのが悪かった」と自己否定

→ ・全てを夫のせいにしたい、が夫は「完全の悪」ではない事を知っているので怒りは自分に跳ね返ってくる

そして今は、物事を「良い・悪い」で判断するのではなく、私は「どう思ったのか、どう感じるのか」を大事にしよう、とようやく思えるようになった。

それはつまり、「ご飯が美味しくない」と言われて、「まあ確かに美味しくないご飯を作った私が悪い」と思うのではなく「そんな事を言われてとても嫌な思いをした」と主張する、という事。

 

「自分の気持ちを大事に」なんて、言い古された言葉であるのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。いつしか私は、自分の気持ちは隠すものだ、と「学び」ながら成長してしまったらしい。だから、今では自分の気持ちが何なのかさえすぐに感じることができなくなってしまった。

自分の気持ちをゆっくりと探り消化しながら、気持ちは自分だけのものだから、大事に大事にしようと思う。自分の気持ちを見つけるため、私もそれなりにやっているよ、と覚えておくため。 日記をつける。

 

 

 

週末のできごと : ノートパソコン

家族でノートパソコンを見に行くことにした。

 

コロナのロックダウンで学校がオンライン授業......

 → 濃厚接触者になった娘は自室隔離を経て部屋に引きこもるようになり

 → 息子はノートパソコンに一日中かじりつくようになった。

 

家族が一日中顔を付き合わせることで、これまで表面化していなかった問題が出てくることは予見でき、それなりに上手く対応はできたけれど。

娘の引きこもりと息子のパソコン依存は想像していなかったし、一度おちいった沼から出てくる事はとても難しかった。

 

そのうち娘も課題でパソコンが必要になり、息子とノートパソコンの取り合いをするように。私もキッチンで使いたいが仕方なくスマホの小さな画面で作業をする。

それで夫に「ノートパソコン、もう一台必要かな。娘も学校で必要な時があるし」と言うと、意外と乗り気だった。

 

それで急きょ週末に見に行くことにした。

下調べも何もしていない。日曜の朝、ノートパソコンの種類が多くかつ安くなっていそうな店を探し見に行った。

 

にも関わらず夫は、娘が「これがいい」と断言したノートパソコンをその場で購入しようとする。

パソコンをもう一台買おうと言い出したのは私。

娘が選んだ Microsoft のノートパソコンも、私が友人から聞いて「良いみたいだね」と言ったもの。

でも、私の中で何かが違うと言っている。救急車のような赤いサイレンが回っている。

「そもそも、新しいノートパソコンを娘のために買う、といつ決めたの??」

 

娘のスマホ依存も同じ。ある時、夫が古い iPhone を娘に「使うか?」とひょいとあげ、引きこもり期間中に家の WifiYouTube を好き勝手に見るようになった。部屋から出てこない娘に夫が激怒し、 iPhone を取り上げようとしてももう遅い。

「窓から飛び降りる」と泣き叫ぶ娘に何も手立てはない。

 

夫はいつも、即断即決したい人。めんどくさがりで、じっくり選ぶこともなければ次の週末にまた戻って買うなんて手間はありえない。

「買うことを前向きに検討する上でお店に足を運んだ」私に対し、終わらせてしまいたい夫。

これまでも何度も様々な場面で、急かされ、失敗して嫌な思いをしてきた。いつも消化不良な気持ちを抱えてきた。

 

私はこれまで何度も何度も嫌な思いをしてきて「あの時はまともな判断ができなかった」と、とても後悔する。それなのに「どうせ買うつもりだったのだし、今買っても後で買っても同じ」「まあいいや」を繰り返してきた。

大げさにではなく、本当に体が痺れて脳が麻痺して「それで良い」が出てくるのだ。

 

だから何よりも、自分自身があの場でそれを瞬時に感じることができ、「今この場で買ってはいけない!」と阻止できたことは何よりもすごいと思っている。

 

結局、娘が選んだものを買うことにした。

さらに娘が絵を描くのに欲しがっていたタッチペンも買う。

でもそのために、パソコンとスマホの使用ルールを(今さらながら)しっかりと決めた。

使う時間、使い方、どのように家族と共有するか。

家から持ち出すときのルール、お互いの承認。

 

娘はこれらをワードでタイプし、私がそれを元に文を具体化させ契約書のような体裁に整え「これらルールは相互の同意で変更することができる」という一文も加え、PDF化してドライブ保存した。

 

一筋縄ではいかない娘は、書面化しようが何しようが『パソコンが手に入った』時点で約束を破る。だから、最初が肝心なのはこれまでの失敗から学んだ。

ルールを守れなかった最初の時点で、しっかりと釘を刺さないといけない。気は抜けない。

それでも、二人でルールを考え決め、お互いに承知したという一歩は大きい。

 

そして、息子のパソコン・スマホルールも同じように作るきっかけとなった。

息子のルールは娘のような文章化ではなく、

 

まず「今の使い方」を使う時間帯ごと表にして視覚化することで

いかに朝から晩まで食事中でさえデバイスに没頭しているか本人も自覚することができた。

 

そして表の右に「これからの使い方」を提案し、息子の意見も取り入れながらお互いが納得できるルールを書き出した。

 

例えば、これまで息子は朝起きてすぐ寝ぼけ眼でパソコンを探して YouTube を見ていたので

 

・起きてすぐ、まずは外の空気をゆっくり目一杯吸って吐くこと

・10分 本を読み、10~15分 学習をした後は、食事を食べる時間以外は好きに見て良い

 

 

こうして日記に書き出すと、私は自分が思っているほどにダメな母親でもなく、割と考えながらやっていることが自分にも分かる。

自信の糧になる。